先生の誕生日を初めて祝いませんでした。
一昨年は長ネギのへんてこなペンを贈呈しました。
去年は先生の顔を象った特製のシールを差し上げました。
今年は簡単に言うと忘れていたのです。
実は誕生日前日に気づいてはいました。
誕生日当日に忘れていたのは、果たして忙しさに霞んだのか、それとも私の中からあの人がいなくなりかけているからか。
Happy(ed) birthday とか言ってやろうかと思ったけど、やめました。
私の友人は世界を救おうとしています。
自分が今やっていることが豆粒ほどに小さく見えます。
自分はこれでいいのか、悩んでしまいます、弱くなってしまいます。
"昔からこの曲をやりたくて、っていうなら良いんだけど、センセイから言われてやるにしては大曲すぎて... 内容を理解してないんだもの"
自分には、この曲がやりたくて、内容だってしっかりと理解しているんだ、という気持ちがありません。
一生懸命やっているのは確かですが、それに自分の心底からの自主性は感じられません。
存分に気持ちがある人が来るべき学校だったのではないかと思ってしまいます。
ここで一生懸命に勉強して良いのでしょうか。
自分にその資格があるのか、無ければ今から無理にでも作るしかないと思っている現在です。
これがどうしても弾きたい、と思えない自分に、こんな学校に来て良かったんだろうかと思わざるを得ません。
幸せ者は偉大にはなれない。
健康的に無理をしてしまっています。
夜2時になんて寝られません。
12時には寝なくては動けません。
"頑張った"の物差しが自分の判断でいいのか、たまにわからなくなります。
自分ではよくやった、と思っていても、他人の話を聞くとそれを疑ってしまうことがあります。
私はもう就活をしなくてはいけない歳になりました。
音楽の道に進んだものの、音楽にこれほどまで執着がないのは自分でも驚きでした。
"音大生がやるべき就活をして、悔いのない夏休みにしなくては駄目"
母のごもっともに聞こえるその言葉も、音大生がやるべきという言葉に何かつっかかるものがあり素直に受け止めきれません。
うんうん!沢山聞いて、メモしてくるよ!と如何にも素直に受け取ったかのような返事をして、家を出ました。
あいにく今日は時間がなくていけそうもありません。
母に言われたことをあの人に当てつけたくてうずうずしていたのに、この役立たずの新人バスでした。
そして憎らしいのはこの自分のやる気です。
就活にやる気が出ないわけではなく、やる気満々に活動をしているのは実際なのです。
だのに、音楽の道への執着が少ない、ただそれだけなのです。
親は学費を払っているんですから、相応の就職先でなくては怒るのは自然のことです。
それも、しっかりと、分かっています。
だからこうやって、音大に来たことは正しかったんだろうか、と悩んでいるのですから。
麒麟児をそれらしく夜に聴くことが板についてきました。
恋愛相談もいつからかされなくなりました。
こうやって先生の帰るのをいじらしく待っていることも、こうやってただ時間が過ぎていくのも、あと1年しかやっていられません。
卒業したらきっと忘れてしまいます、双方が、すぐ。
だからせめてあなたの中のどこか奥で、知らず知らずにでも、色濃く残っていたいものです。