初歓迎会について、明記しておこうと思う。
人生に一回しかない、正真正銘の初の歓迎会。
酔いが回り、意識も朦朧とする中、人間はこんなものなのかと思う自分の今の気持ちを綴っておこう。
7/26、このチームで初めての新入社員歓迎会だった。
実に3年ぶりというこの歓迎会は、なかなかのテンション感で催された。
一次会は穏やかに、僕がそれぞれの人生を聞いていくスタイルで進んだ。
それなりにそれぞれの人生を聞き、それなりに自分の話をした。
食事もワインも、ビールも、良い感じに飲んで良い感じに終わった。
所帯を持っている課長は帰った。
「あそこらへんの集団は二次会もいくと思うから、行きなぁ」と言われるがまま、あと1時間ほど飲めそうだったので飲んだ。
最初は穏やかに、一人の回し役を中心に始まった二次会であったが、そこでの話で僕のお気に入り、いやきっとチームの癒しキャラであろう人が一声あげた。
「世代で括るな、それは大変失礼だ」
彼は、回し役にしきりに主張していた。
チームの癒しキャラクターとして認識していた彼の存在。
そういう人は、本当の癒しキャラとして存在しているのではなく、往々にしてしっかりとした軸を持っている人が多い、僕の経験上だ。
その人も、その1人だった。
おそらくそうではないかと思ったが、やっぱりそうであった。
平たく言うと「世代で僕を語るな」ということだった。
全うな意見であったが、癒しキャラクターという認識であった人がそのような発言をすることに半ば驚いてしまった。
いかにも現代的であるし、おそらくひと昔前であったらつつかれたかわからないことかもしれないが、自分に軸をしっかりと持っている人からすると、意に反したことを言われたら主張したくなってしまうのかもしれない、想像に難くはない。
しかし、ここではそれを飲み込んで、思想のぶつけ合いは控えてほしかった。
思想のぶつけ合いを、酒を交えながらやるものではない。
僕は「なるほど」と、始まってしまったことを悟り、絶対にこの気持ちをあとで綴ろうと、どのような言葉を用いて書こうかすでに考えていた。
結局その論争は、周りの先輩が上手くまとめてくれた、おそらく最年長の先輩はささっと会計を済ませてくれた。
「前から君の態度はこうだと思ってた」だの、「話をずらすな」だの、いかにもな言葉が飛び交った。
この発言を許さない者はきっとある意味の過激派になるだろうし、逆にそれを助長させるのは正真正銘の過激派になるだろうから、僕は真ん中を頑張って確立しようとする、それを僕は、「人間だな」と心の中でまとめあげる、という方法でとるほか他なかった。
普段優しい人の沸点は、いつやってくるか分からない。
僕が、「有名キャラクターの○○に似てます!」と半分冗談半分本気で言ったその言葉も、もしかしたら心の底で不快に思っている可能性がある。
そんなことを意識しながら、話す他ない、話さないといけないことを改めて思った。
こうやって、きっと、あの先輩も反省しながら1人帰っているのだろう。
僕はこういった正しさや人間の考える価値観に関する論文をよく読んでいるわけではないし、古代から論じられていたものに詳しいわけではない、詳しくなりたいとは思うが。
だから今は、「人間だな」と思うほかないことに一種の悔しさを感じるとともに、諦めの念も抱くのだ。
1次会で帰った人たちはきっと懸命だった、たとえこんな惨事が初めてだったとしても、予想外だったにしても。
彼らはこの惨事を予想して帰宅したのではないか、そんな気もしてくる。
まあしかし、先輩に聞いたところこんな論争は初めてだと言うが。
帰りの電車では、いつも以上に飲んだ酒たちが僕を襲ってくる、Spotifyの音楽が、電車の騒音とまじって聞こえる。
完全に歩いて帰ることが確定した。
余裕です、と言う僕の言葉の裏に、歩くことが確定したことに対する落胆の気持ちがあることに気づくのは難しいだろう、一部の人を除いては。
だから僕は、肝心な部分は出さず、仮に出したとしても傷つかない程度に出し、会社生活を送っていくのだろう。
きっと、「2次会どうだった」と聞かれた際には、「楽しかったっすよ」と、当たり障りない言葉で返答するのだろう。
部署に入ってきた当初、「当たり障りない」は奇妙だと思った。
僕はわりかし全部を表出するタイプだし、みんなもそうであるときっと世界は平和になると思っていた。
しかし、そうではない場合がある。
「当たり障りない」は、一番めんどくさくないのだ、そう、気づいてしまった。
僕の父は「明日になれば飲み会の話をする人なんか一人もいない」と言う。
父のことだ、励まし?明日への景気付け?に言ったのだろうか。
本当に飲み会の話をする人なんかいないだろう、そうなのだろうと思う。
きっと、ここから仕事、ここからプライベート(飲み会)と割り切る人が多いのだろう。
父が言うように、きっと明日もそうなる。
しかし、僕はその表層的なものではなく、人間はどんな人でもこのような一面があることを心に留めておきたいと思った、「当たり障りない」に繋がる小さな心のあや、そしてそれを超えてしまった状態を記しておきたいと思った。
小さなことかもしれない。
誰もがはじめ不思議に思いそしてのちのち慣れていくものなのかもれない、しかし、当初僕はやはり、「当たり障りない」を超えて表出した「ビジネスマンの人間らしさ、人間臭さ」を良くも悪くも感じたということを心に留めておかなくてはならないと思ったのだ、たしかに。
人間臭さを回避できる行動をするのがデフォルトになる前に、この今の等身大の気持ちを記しておきたかった、こんなに酔っている状態でも。
きっと僕が「僕の思い出に、一枚ください!」と、穏やかな一次会終わりに撮った写真を、どこに提出するわけでなくても、誰一人困ることはないのだろう。
そう、困ることはない、欲しいと心の奥底で思うことはあっても、困ることは、決してないのだ。
新入社員として受けていた研修期間を思い出す。
同期との距離、世間で話されている仕事仲間との距離感を、僕は少し寂しいと思った。
しかし、幸い?僕の同期は距離感がとても近かった、みんながみんな。
それに僕は救われた。
今度は自分の部署内で同じようなことを感じている。
少なくとも今日の夜は感じている。
「当たり障りない」
この言葉をキーワードに、仕事仲間のプライベート事情も、結婚事情も、未来の話も、知ることなく過ごしていくのだろうか。損得勘定が働いて、自分に不利になりそうな情報は極力出さないという選択をするのだろうか。僕の会社は妙に頭の冴える人が多いらしいから、もしかしたらそれが顕著かもしれない。
カメラマンが「同じチームなのに新姓を知らないのびっくりしたよ」と言った昨日を思い出す。
それを少し寂しいと感じる僕と、今日のようなことがあるとやはり「当たり障りない」に依存してしまいそうになる僕とを両方抱えて。