nekoyanagi0777’s diary

僕の/私の 脳内メモリー

先生告白

2020/3月

 

今の私を昔の友人が見たら、なんと驚くでしょうか。こんなにも変わった私を見て。

妹は 驚くことじゃ無い、人には誰も変化の時がある と言うけれど、それでも私はここ数ヶ月の自分の変化に心底驚いています。だって並大抵の変化ではないと思っていますから。

 

 

 

ある日私の昔お付き合いをしていた人から便りがありました。珈琲屋で私を見つけた?何故声をかけてくれなかったんだと思いましたが、実際声をかけられたら私はきっと大変困惑したでしょう。しかしそれでもしっかりと刮目したかった。如何に君が歳を老いたか、どれほどあの頃の魅力が薄れたか!その珈琲屋で君に気づかなかったということは、或いはそれほど魅力が無かったという裏付けかもしれないですね。兎も角、便りをもらった私は何の未練をも抱きませんでした。あれほど一喜一憂した昔は、ただ経験した事実にしか過ぎなくて、それはそれとして保存されているだけなのですから。

私は言ってやりたいのです。

いいかい、人は変わるんだ、しっかりと心得ておきなさい。と。

昔の私にそして今の君に、そう言ってやりたいのです。

 

私の恋愛の遍歴は正に、キュルケゴールによるモーツァルト論のドン・ファンのようでした。消費をしていたのです。これは、消滅するための有に等しく、かのヘーゲルがこちらを笑っているようです。

 

 

 

 

そして私はここ数ヶ月の変化を列挙することとしました。読書を好むようになったこと、哲学に興味を抱き始めたこと、教育について考えるようになったこと、勉学への意識が変わったこと、好みが変わったこと、恋愛へ向けての思想が変わったこと、音楽にしっかりと向き合うように努めたこと。あの人が私にこれらの変化をもたらしてくれたと信じてやまないのです。

私はあの人を、先生と呼びます。

後に人々はこの覚書を 先生告白 と呼ぶでしょう。

 

私の音大生活は実のところ2年次から始まったと言っても過言ではないほどです。今思えば1年次は、気合や心持ちが全く足りていなかった。New corona virus が流行ったこの年は、2ヶ月とちょっとの休みが与えられることになりました。次のピアノの曲が決まったのは残り1ヶ月と少しの時でした。練習をして休みが終わりレッスンはいつかと言うとき、私は はっと気づきました。師匠にしっかりと見せられる曲が一つもないでは無いか、と。この1ヶ月、新しい曲を譜読みしただけだったというのでしょうか。曲と向き合う時間をあまりにも作らなかったからなのか。何となく指を動かしていた時間が多かったということなのか。私はそれから いつ師匠にお見せしても胸を張れる演奏ができるよう 練習をすることと自らに言い聞かせました。強く強く。

 

 

ある晩のことです。私は先生の声で眠ろうとしていました。私宛ではない、決して甘い言葉を囁くのでもない、そんな声だのに、眠ろうと 眠ってやろうと努めたのです。次の日の目覚めは清々しいの他でもありませんでした。

 

 

私はかく語りき。

末人になるべからず。

そう、超人にならねばらならんのです。

 

 

 

私の嗜好をあの方に教化したのは、遠い昔のこととなってしまいました。

私の全てをスポンジのように吸い取ろうとしたのをあなたはもう覚えていないでしょう。

私を見かけてもまるで存在しないみたいに。

すっかり忘れてしまったのですか。

遊ばれず仕舞いの玩具のように忘れてしまったのですか。

 

 

 

健康的に無理をしたい

これは一見、矛盾してるかのように見られますが、私はそうは思わない。

きっと弁証法的にジンテーゼがしっかりできると思っています。

できなければならん。

私はそれをやってのけなけりゃいかん、と思うのです。

 

 

 

こんな安価な てぃーしゃつ で、てんやわんや騒いでいた頃が実に愚かに思えます。

安っぽいと感じる由縁は、やはり安っぽい思い出であって。

ラガッツォぼくは、パッションのない、まさに少年だったです。

 

 

 

今までのつぶやきは、世に向けたつぶやきなんてものではなく、そう、あなた様に向けた言葉でした。

 

 

この文が、いつか先生の目に入るときのため、この漢字の使い方は間違っていないか、言い回しは適切か、恥をかかぬよう確認をしました。しかし、訂正してくれるように少し残していたりもする。そんな気分の時もあるのです。

 

 

でも私は先生をきっと忘れます。

どうせ忘れます。

こんなにこころが熱くても、嘘が白くても、ほくろが青くても。

今までもそうでしたから。

忘れたくないと願っても、日々の忙しさがこの胸の熱さを覆って無くしてしまうに違いないのです、いつか。

だからこそこの時を愉しむのです、今しかないからこそです。

 

 

 

先生の誕生日を大事そうに手帳に記します。

甘酸っぱい、とでも言いましょうか。

しかし、それにはあまりに酸味が強い。

今の私には酸っぱすぎます。

あちらはこちらを祝う理由もなければ、素振りも見せないのですから。

いつでも、いつまでも、一方通行の気持ちです。

 

 

ある週のレッスンでは、師匠は1つの楽章が終わるたびに 上手い、上手いよ とつぶやいたり、私に声を掛けてくれたりしました。でもそれは慰めの上手いであるに違いない。この演奏でいいはずがないですから。慰めの "上手い" ほど心に刺さるものはこの世の中にありません。

 

 

 

真昼の光そよぐ風に乗った登校中。

私は歩きながら、思っていた人を駅から出たすぐそこで見つけてしまいました。

先生の後ろ姿を見つけたのです。

それは私の思っていた通りの登校姿でした。

少しおどけていて、そしてやはり身に纏っていたのは紛れもなく私の好きな衣でした。

気がつくと私は小走りになって声をかけていました。

驚いた様子で、会議のためだけに登校するなんて意味が無いなと思いながらここの道を歩いていました、と私に話してくれたあの時間は、紛れもなく二人だけの時間でした。

すると先生は だから良かったです、会えて と一言そっと添えたのです。

あの何気なさは憎むべきものです。

憎いですよ、あなた自身も、あなたが落ち着いた声色で話す話も、あなたのその立場も。

あなたが私たちに施す善意全ては、あなたの立場という大きなものに理由づけられてしまう。

個人的、私的なものはそこに一切存在しない、してはいけない、するはずもないのです。

しかしあなたにとって何でもなくても私にとってあなたの言葉たちは宇宙の何よりも偉大であるのです。

 

 

先生が学生のために自費で買ってくれた本がありましたね。先生はその一部を書いていました。私はその本を頂こうとあえて休み時間に研究室へと行きました。講義の後に行ってもいいのですが、そうするとあまりに時間が短い。二人で少しでも話がしたかったのです。しかし結局私の意気地が無いためにドアを前にノックが出来ませんでした。その後、手洗い場を出た時先生の奇抜なシャツの片鱗が見えました。あと少し早ければ。先生はどこかへ消えました。運命に憚れたのです。時間が来て、私は先生の最後の講義を受けました。物事の最後はいつでも素っ気無い。本当に時間配分を考えずにあの先生は...。今日の講義も最後は駆け足でした。私はとぼとぼ次の講義へ向かおうとします。しかし、ふと立ち止まり少し後ろを振り返ると先生が、帰っていいのですか、失礼しますよ、という風に首を数回傾けてきました。私の心のフィルターを通すと足も名残惜しそうに見えます。そこでここしかないと思い立ち、友人に先に行ってくれと言葉を残し先生の元にいざ行かんとしました。張り切って、先生あの本頂けますか。すると先生は お、待ってました と一言おっしゃって鞄から一冊出してきました。待っていただなんて、嘘でも嬉しい言葉でした。そして9冊あったのが今や2冊へと減りました。先生は9冊が妥当だとして買ったのでしょう、本当に適度な数でした。もう来ないですねきっと、と先生はつぶやきました。私が最後の一人だと思うと少し嬉しい気もしました。すると先生は落ち着いた心地の良い声色でそっと、 髪 下ろしたんですね と一言おっしゃったのです。学生の髪型が変わったのをわざわざおっしゃる先生がどこにいましょうか!先生は私はどんな章が興味がありそうかを話して下さいました。是非読んでみて下さいと。すると声楽の友人2人がやってきました。先生は お! とすぐ気づき、一緒に話し始めました。私と話す時よりも楽しそうに話しているように聞こえてしまいます。若しくは本当にそうであるのか。そんなものを横目に、少し考えていました。やはり他の人間に好かれるのを見るとあまり良い気分がしないのです。私だけが最初に先生のことを面白がっていたのですが、段々とそれが広がるようになりました。私だけが好んでいて良かった。私だけがこの人の良さを知っていれば十分だと思うのと同時に、それでは先生がかわいそうだと思う気持ちもあとを付いてきました。わざわざ駆け寄り話しに来た友人を横に、私はこれで失礼します、と身を引きたい気分でした。そんなもので先生は何も思うはずもないに違いないのですが。チャイムが鳴り私たちが散らばり、一人で次の講義へ向かう途中、私はぽつりぽつりと まぁこんなものなんですよ と呟いていました。髪を下ろしてることを気づいてくれたことに、とんでもなく喜んでいる自分を一人、次のクラスへの少しの道で客観的に見てみました。そんなことで喜んでいるのが恥ずかしくてみじめでもありました。日々の活力をこんなもので製造してしまっているのが、みじめなのです。だからと言って大きな出来事があってもそれはそれで大変なことです。何か起れ、と願うと同時に何もありませぬよう、と思うこのジレンマに苦しめられます。本を受け取るだけで大きなことが起きるはずもないのに馬鹿馬鹿しいですよ。

 

 

友人たちが先生と少し話をしたとわざわざ話してくれました。試験や講義についてでした。すると友人は、君の話が出たよと言ったのです。去年の課題はあの子が凄かったですよね、と話に出したらしく。ありがたいことです。すると先生は自分の携帯から私の課題のデータを出したそうな。これは教育の面から見て如何なものかと考えましたが、先生の講義を受ける前はこんなことも不思議に思わなかったに違いありません。成長の証でもあるのです。私は先生を信頼しているし、友人だらけだったのでここは許しておきましょう。すると先生は 確かに頑張ってましたね と話していたらしいです。そうだ、私は先生のおかげで今こうして頑張れているのです。しかし、よく考えると頑張る学生など山ほどいます。これまでもこれからも。きっと今までも私よりも先生のおかげで頑張れていたり、成績が良かったり、考察が素晴らしかったりする学生など沢山いたに違いありません。研究者の先生にとってはきっと優秀な学生の考えなどは印象に残るでしょう。ただ私が先生に執拗に話しかけていたりしているから少し印象に残っているだけだとしたら、私はやはり先生の1番にはなれませんね。先生にとって何か特別な存在にならない限り、一番には一生なれない、ずっと一番が更新されていくのだから。若しくは先生という立場から一番など最初から存在しないのかもしれません。そう考えると世の中が考える、ある人の一番になりたい、という願いはとても共感できるものです。更新され続け、忘れられるのはやはり辛い。ほら、見てみてください。もう既に私よりも有望な人材がいるじゃありませんか。私の友人ですよ。

 

 

 

しかし学生と先生の関係だからこそ嬉しかったこともあります。先生は常に学生の側から見て良い講義をしようと努めるし、学生の質問には親身になる傾向も幸いあります。私が学生である以上、"特別"にはなれないかもしれませんが、何か教育というもので繋がっていることが唯一の救いであったりもします。

 

 

友人が先生からこれを頂いたんだと喜んでいるのを見ると、あぁそういった行動は全て、ただ学生のためを思ってとる行為なのだと思うのです。自分にしても、他の人にしても特別なものではない。それは私に突き付けられる紛れもない事実です。待ってました、なんて言葉は、本当にそうなのか分かりませんよ。

 

深夜に広く、静かな空間で孤独を感じるくらいなら、私のところへ来て下さいよ。

私的なものは望んでも一生与えられないものなのですね。