nekoyanagi0777’s diary

僕の/私の 脳内メモリー

クラシック音楽の味わい方について

クラシックを存分に嗜むには、ある程度の経験、知識が必要だと思う。

 

そのことを、私はこの4年間でやっと理解したように思う。

 

ポップスならば、何の予備知識や「聴く耳」を待ち合わせていなくても、大衆にとって決して難しい音楽ではないと思う。

 

しかしクラシックの分野では、そうはいかない、少なくとも私はそう思うのだ。

 

何故なら、音大1年生くらいまで、私は全くクラシックの良さを享受できていなかったからだ。

 

恥ずかしいことだが、私の音大1年生はそんなものであった。

 

だからこそ、万人がクラシックの真の良さをより享受出来るようになるには、どうしたら良いのかを考えている。

 

もちろん、今のままでも十分にクラシックを楽しんでいる人もいるかもしれないが、肌感覚では、そうではない勿体無い人が多いように思う。

 

音が綺麗だね、何だか良い音楽だったな、の先に計り知れないものがあるのだ。

 

かつて自分は勿体無い人の一人であったし、なんなら音楽の壮大さ故に今も良さの1割も享受出来ていないかもしれないが、だからこそ結論は、音楽には「時間とお金と努力」が必要なのだということになるのだ。

 

 

 

 

 

 

ポピュラー音楽の歌詞は、現代の言葉で書かれている。

 

そして、現代の言葉は、現代の文化の中で使われる。

 

例えばクラシックのオペラ、声楽曲だとまず文化が違う。

 

オペラは大体イタリアオペラだが、それらは日本と国が違うし、今を生きる人と時代も違う。

 

同じ時代の言葉でも、違う文化圏では違う言葉になり得る。

 

言葉の奥にある背景が違うのだから。

 

ここにまず一つの壁がある。

 

私たちがクラシックを知識なしに、手にとるように理解が出来ないのには、「時代と文化の違い」が挙げられると思う。

 

これは声楽曲だけではなく、器楽曲でもそうだ。

 

神への祈りを歌うフーガを、予備知識無しに熱心な信者とは言えない純日本人が聴いても的外れにならざるを得ない。

 

もちろん、「音楽の力」、旋律や和声、リズムなどがもたらす不思議で感覚的なものを感じることはあるだろう。

 

厳かな音楽だな、といった風に。

 

しかし、勉強をすればもっと深いものがあることに気づく。

 

又、勉強として例を挙げると、音楽における身体の使い方を心得ることも良いかもしれない。

 

私の師は「音楽はスポーツだ」とよく言った。

 

身体の使い方を心得れば、その音が出るメカニズムも見えてくるかもしれない。

 

あぁこのような柔らかい音を出すには、このような身体の使い方が必要なんだよな、と聞きながら思いを馳せることが出来る。

 

一つの楽器でそれを心得れば、他の楽器でも応用出来ることが多い。

 

そのように学び続ける「努力」が必要だ。

 

 

 

 

 

そして、特にクラシック音楽を嗜もうとすれば「お金」が必要にもなってくる。

 

市民オペラは感動的ではあるが、音楽に一生を捧げて学び続けた人の演奏からは得るものが多いのは確かだ。

 

真の音楽に近づこうとすれば、少なくともそういった機会を得にいくことは大切だ。

 

私は4年間を通して、気がつくと音楽が流れている環境にいた。

 

それが知らず知らずのうちに、しっかりと良い影響を与えていたことに疑いはない。

 

私は来年の春には社会人になるので、これからは自分で得にいかなければならないし、同時に、そのために必要な時間とお金を確保しなくてはいけない。

 

 

 

 

 

そしてこれは感覚的な話だが、クラシックは共感覚的に聴くことが大切なのではないかと思う。

 

クラシックを聴くとき、私は様々な感覚を使い、あらゆる記憶、知識、経験を掘り起こしている。

 

それらを得るにはある程度の「時間」が必要になる。

 

あるレッスンで先生から言われた言葉、あの時行ったコンサートで聴いた音、先生の手本の演奏を聴いた時の感覚、必死をこいて覚えた作曲家の人生、先輩とアンサンブルした時に覚えた感覚、夏休みに行った大自然の中での安らぎ、練習中に開かれた真の音楽に少し触れた感触、コンクールでもらった講評と苦い記憶。

 

音楽の経験は無論、それ以外の自分の行動・経験全てが、音楽を聴く時に総動員される。

 

今までの自分の全てが音楽を聴く時の感覚を形作ると思うと、どれほどの時を超えて今の感覚を作り出しているかが分かると思う。

 

 

 

 

 

私は4年間を経て、やはり一つのものを極めることには、それなりの価値があるように思った。

 

音楽一つを極めてきたはずなのに、あらゆる場面でシンパシーを感じることが増えたのだ。

 

私のあるひとりの師も言った、とんがりコーンは違うところでも同じことなのだと。

 

自分は良い4年間を過ごした。